お侍様 小劇場 extra

    “愛し仔猫のいる一景vv” 〜寵猫抄より
 

        


 満足のゆく“いい仕事”で洗濯物を干し終えた七郎次へと、唐突に掛かってきた電話が告げたのは、

 「栃木の伯父が住まいで倒れたそうなのです。」

 母方の親類で関東近隣に住まうのはその人のみという間柄の係累で、早くに両親を亡くした彼がしばらくほど世話になっていた人でもあり。向こう様からもまた、最も近場にいる血縁ということで、自分に何かあったらこちらへ知らせてくれと、

 「近所の人に頼んでいたらしくて。」

 そんな関わりから電話を掛けて来て下さった、お隣りに住まう奥さん辺りだろうお人が言うには、お家の前へ救急車が駆けつけたので気がついたという急変。急な病かそれとも怪我かも判らないが、どこへ搬送されたかは聞いてあると病院の名前を教えて下さり、

『自分で救急車を呼べたんだから、
 今すぐどうこうっていう危篤とかじゃあないと思うんだけど』

 そんなお言葉添えを下さったと言うものの、さっきまでの溌剌と元気そうだった様子が一変しての、思い詰めたような表情や顔色が、どれほど動揺している七郎次であるのかを伝えても来ており。魂が抜けでもしたかのように呆然となって戻って来たリビングで、いかがしたかと勘兵衛から問われてのこと、今さっき訊いたそのままをどこか単調に紡いだ彼へ、

 「それで…お主は何をしておるか。」
 「はい?」

 聞こえた言葉の意が酌めず、ああ、何か考えることまでが鈍くなっていると、そんな自分をぼんやりと実感したところへ畳み掛けられたのが、

 「急いで支度にかからぬか。タクシーなら儂が呼ぼう。」

 今時は、電話で問い合わせても、個人情報の保護とか何たらと並べられ、病状どころかそのような人が入院しているか否かさえ言えぬと、頑なに構える病院もあると聞く。
「なに、この時間帯なら道も空いておろうから。」
 いっそ現地までタクシーで直接向かってもよかろうと、てきぱきと手配に動き出す壮年殿であり。そして、

 「あ、あの、勘兵衛様?」
 「いいから向かいなさい。」

 電話を据えたサイドボードに向かいかかっていたその身を戻し、何だと聞き返した勘兵衛へ。まだどこか曖昧なお顔でいる七郎次だったのこそ、まったくもって“らしく”なく。どうしていいのかが判らぬか、それとも……、

 “これが誰か他の者の上へと投じられた事態だったなら、
  もっとてきぱきと尻を叩いてやっておるのだろうに。”

 突発時に弱い人間だというのじゃあない、ただ、

 「こんなときにこんな言いようもないかも知れぬが、
  “わたくしごと”だからと思うて戸惑っておるのなら、それこそ心外ぞ?」

 仕えるお人を持つ身の上だのに、その使命を放っぽり出してまでという勝手をしてもいいものかと。そんな方向での戸惑いに、泡を食っている秘書殿なのに違いなく。そして、

 「何なら、車を出して儂が送ってゆこうか?」
 「あ、いえそんな。勘兵衛様にそのような…。」
 「そのような? 家族の一大事なのだぞ?」

 呆然としたまま立ち尽くしていた七郎次が、ハッとして…やっとのこと その顔と視線を上げた。今や唯一と言ってもいい、亡き母のことを語り合える、数少なくなった縁者の危急だというに。ああでも、自分は大事な勘兵衛様からは離れられぬし…と、大きに迷ってしまった。どちらをなんて選べないと、立ち尽くしてしまったのだろう彼であり。そして、そんな判断を持って来た彼だったのへ、もうすっかりと打ち解け切っての、遠慮なぞ一切差し挟まぬだろ間柄になれたはずがこれだものと。困った奴よとの苦笑を、仄かにながら その口許へと浮かべておいでの勘兵衛で。

 「そうであった方がいいことながら、もしも 大事でなければ、
  儂までが着いてっては、それこそ先方様にも気を遣わせようからの。」

 状況が判ってからでも遅うはないはず。だから早く駆けつけよと、今度は後押しするよに微笑って下さるものだから。喉元までへと迫り上がってた何かしら、切迫していた心持ちが、じわりと温
(ぬる)んでほどけていって。もう家族であろうに遠慮をするなぞ水臭いと、そうだったのだと諭して下さる、言って下さる御主なのが。このような落ち着いた人に添うていることが、本当に幸せなことだなとしみじみ思ってしまった七郎次だった。



       ◇


 支度と言っても、エプロンを外して外出用のボトムに着替え、上着は…この陽気ならばさほどごつい外套の必要はなかろと、日頃着ているジャケットを手に取って。ハンカチをポケットへ入れ直して…それで終しまい。自分がお医者へかかるわけじゃなし、保険証や何やも要るまい。母方の親戚が多くいる、伯父さんには郷里にあたるところへの連絡が要るかもしれないのでと。住所録にしている手帳とそれから、現金が要る場合も慮みて財布の中身を一応確かめて。あとは携帯を持てばそれで十分であり。

 「じきにタクシーが来るぞ。」
 「はい、すみません。」

 パタパタとリビングへまで戻って来れば、連絡をつけてくれたのだろ勘兵衛が、その腕へ久蔵を抱き上げたままで声を掛けてくれ。

 「…みゅう?」

 彼らが何をばたばたしているのか、事情はさっぱり判らぬながらも、尋常ではない事態じゃああるらしいとは察したか。ずっと神妙な態度でいる小さな坊やへ、その視線が向いた七郎次。

 「あの、勘兵衛様。食事のほうは…。」
 「ああ。冷蔵庫にあるものを温めるなりすればよいのだろ?」

 男二人だけの暮らしようであった頃と違い、小さい子だとはいえ家族がもう一人増えてからこっち、家で食事をとる機会が断然増えた。他人には仔猫にしか見えぬ子だから、あちこち連れ回せないという事情あってのことだったのが。今はそれ以上に…家族で囲む食卓の楽しさやありがたさが、もはや手放せぬ至福と化しており。そちらもまた、そんな変化へ関わることだろう、前々からも手料理を供してくれていた七郎次だったものが、その腕前もずんと上がって、今や当たり前のように、冷蔵庫に総菜の残りが収まってもいる日々なので。ほんの1日かそこいら、主夫である彼が家を空けたとて、危急に迫られるようなことはない。よって、案ずるなと告げた勘兵衛だったのだが、

 「いえあの、久蔵には食べさせてはならぬもの、覚えておいででしょうか?」
 「お……?」

 抱えてくれている勘兵衛の腕へちょこりと腰掛け、つぶらな瞳をぱちくりと瞬かせては、大人二人の会話を見上げている愛らしい坊や。常の着物である白っぽいフリースのシンプルな上下と、今は七郎次が編んだそれ、ラグラン袖なのが暖かそうなデザインの、深紅のボレロを羽織っており。小さなお手々の先、指の腹をちょっぴり口許に当てているのは、もしかしたなら不安の現れかも知れず。ああ、そんなお顔をしないでくださいようと、七郎次が目尻を下げつつ手を延べて、柔らかな頬を撫でてやる。

 「取り置きのものには、あんまりそういうのは入っておりませんがそれでも。」

 玉ねぎやネギの入っているものはダメですからね。あと、スルメやタコ・イカの類もダメ。ニラやニンニクもダメですし、チョコレート系のお菓子もNGです。それから…
「ああ判っておる。」
 それこそ、何日も家を空ける訳ではなかろうに。毎日食べさせると体調を崩すというような種類のものまで挙げかねぬのへは、さすがに勘兵衛も呆れて見せてから、

 「あまりに切迫した顔をするではない。」

 こそりと呟いて、自分でも懐ろの幼子を見下ろした。どんな一大事が起きているのかと、不安がってしまうだろうがという意図は、そんな所作だけでも ようよう伝わったようで。とはいえ不安は隠せないのか、再び視線を下げた七郎次のお顔を、坊やの側からも、澄んだ瞳で見上げて来。みゅう…と呟くように鳴くのが何とも不安そうに聞こえたものの、それへと重なったのが静かな空気の中、近づいて来た車の気配。他所様のことは言えないが、サラリーマン世帯は少ないものか、こんな朝っぱらから車が出入りしはしないご近所なので、当家で呼んだ車が来たのだろ。何とも去りがたそうなお顔でいた七郎次も、お迎えには逆らえずで、それではと玄関へ立ってゆき。

 「みゅ…みゅうぅ。」

 何を察したものなやら、久蔵の側もまた、切なそうなお声をしきりと上げ始め。それを拾ったか、廊下の途中で立ち止まったお背
(せな)が、だが、振り向かないまま玄関までを小走りに去ってったのは。場合が場合でなかったならば、なかなかの名シーンであったかも知れない。

 “…まあ、儂の書く代物にはあまり出ては来ぬがの。”

 これこれ島田せんせいってば。当人同士は切実なんだから、そんな風に冷静に分析しないの。
(苦笑)




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